詩と朗読
茨木のり子さんは晩年、この市内で一人暮らしをされていたという。全く知らなかった。
昨年こちらに来て広報誌で「茨木のり子の家を残したい会」の存在を知り集まりに行ってみた。「わたしがいちばんきれいだったとき」や「依りかからず」等の詩でファンも多く呼びかけ人の方々のひたむきな思いが伝わってきた。賛同人に名を連ねる事にした。
会で発行している冊子に原稿を頼まれた時も、とくに断る理由もなく、文学館や記念館を訪れる趣味があること、以前、世田谷文学館で茨木のり子展をみて感じた事等を書いた。
春の集いが延期となり、ようやく夏の集いが感染対策の条件付きで開催された。
趣向を凝らしたパネルを背景に作品の朗読などが行われた。ふむふむなるほど、と思ったり窓を開けて換気をしているうちに大体が終わり、交流会らしい。と、突然に指名されて慌てる。
詩人の、と司会者に紹介されてさらに慌てる、が、マイクがきたので仕方ない。
なんか思いついたことをちょっとだけ早口で小さい声で喋って誤魔化した。
ふー、ビックリしたなー。しかし、考えてみたら突然で良かったのかも。予め頼まれていたら緊張感ハンパなく前の日から食欲なく眠れなくなっていたに違いない。
わたしは書く事だったら何とでもできる。
だが、音声はダメ。人前で喋るなんて有り得ない。マイクがきた時、後部席にいた自分に向かって全員が振り向いて座り直したのを目にした時にはもうどうとでもなれ、と開き直った。土壇場になれば大抵何とかなる。
そういう経験もほんの少ししてきた。
だけど、詩を朗読したりは出来ない。
音声にのせる、それは1つ別のせかいの扉を開ける事のように思う。
詩人、と紹介されたのは恥ずかしかった。
でも詩を書くひとはみな詩人。超有名人もいるし、わたしみたいに全く無名な者もいる。詩のそばにいる。それは間違いない。それでよい。