一人になりたくて…(卒婚という選択)

60代女性の一人暮らし。本が好き。

記憶に残っているあの日

 


はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

 

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 記憶に残っているあの日はあまりに多い。すごく忘れっぽいけど、忘れられない出来事はたくさんある。あり過ぎる。この年齢まで生きてくれば当たり前かもしれない。「あの日の記憶」はアタマとココロに残り、残り続け、どのように作用するのだろう。人の性格や生き方に影響はするだろう。熾烈なものほど残ると思うから忘れ難いものは辛い記憶と結びつくことが多い気がする。

 そう思いながら何となくGoogleフォトを眺めていたらこの写真がでてきた。今年のわたしの誕生日に長女が持ってきてくれた、花やウサギやケーキ。その日もあいにくの雨だった。彼女は雨女である。何しろ幼稚園の入園式から雨だった。そういえば生まれた日は春の嵐だった。三月三十一日生まれの小さな娘の幼稚園入園式は雨の中、パパが抱っこしていった。

 あの日から気が遠くなるような歳月が流れ、娘は37歳になり、わたしの誕生日や母の日にはいつもいろいろ持ってやってくる。たいてい雨である。雨だから無理しないでねとわたしはいつもメールする。うん、わかった、でも大丈夫、と彼女は言って荷物を持って出発するから、わたしは到着する頃になると落ち着かなくなり何度も時計を見上げたり、外へ見に行ったりする。娘は左目が見えない。傘をさして荷物を持って電車やバスを乗り継いでくるので心配で仕方ない。それでも彼女はちゃんとやってくる。相変わらず小柄なので傘が歩いてくるようだ。大好きなピンクの服を着ている。可愛い長靴だね、と足元をみると「子供用だよ」とニコニコしている。

 娘は小さな頃から入退院を繰り返してきた。最初の入院は喘息だった。それから腎臓病がわかり病院を何か所か変わり、手術も何回もした。完治はなく、悪化させない事だけに全力を尽くす。通院、入院中、わたしと娘は一緒に頑張ってきたと思う。三人兄妹なのであとの二人も本当によく協力してくれた。数えきれないほどの出来事があった。自分の病と向き合う長女は本の好きな思慮深い女性へと成長していった。一方、奔放な性格も発揮してボーフレンドも多かった。派手な服、踵の高い靴、彼氏のバイクに乗るための赤いヘルメット、自己を主張する年頃にはそういうものが本と一緒に娘の部屋には散乱していて手のつけようがないほどだった。

 そしてあの日、わたしはその電話を受けた。数日後に旅行を控えて買い物をしていた時、携帯が鳴った。長女の携帯からだったので「Мちゃん?」と電話に出たら男性の声が飛び込んできた。「お母さん、すみません、事故を起こしました」と彼は言った。

 その日「彼と一緒に暮らす」と宣言して、娘は幾つかの荷物を持って彼の借りた車で家を出て行ったはずだった。彼とはその何日か前に紹介されていた。ひと廻り年長の誠実そうな青年だった。何より、医療従事者だという。入院していた病院で出会ったらしい。紹介されてすごくホッとした。今まで付き合ってきたどの男性とも違う、ああ、良かった、ずっとずっと娘を守るのに必死だったけれどこれでようやくバトンを渡せたような気がした。いろんなことがあったけど、娘は幸せを掴んだのだと思った。

 彼からの電話を受けて、夫と一緒に病院へ向かった。救急車で搬送された娘の医療処置を長い間待った。運転していた彼は軽傷で私たちの前に深く頭を下げた。とにかく命はある。ただそれだけが知りうる全て。あの長い待ち時間を忘れることはないだろう。ようやく面会することが出来た。娘は重傷ではあったが意識もあり内臓へのダメージもなく骨折や打撲だけだったのは、単独事故だった事と合わせて不幸中の幸いだったかもしれない。その日からまた付き添いのための病院通いが始まった。パート仕事を終えた足でせっせと通った。頭痛薬を毎日飲み気持ちの整理もつかないまま、ただただ日々に追われた。手術があり、リハビリがあった。ある日、家族は何度めかの医師の説明を聞くため病室に呼ばれた。その日は主治医のほかに眼科医がいた。シーンと静まり返った病室で医師の「左目の回復は望めません」という言葉を聞いた。

 顔面の打撲もあったから手術や検査が繰り返されていた。回復する、治癒する、という希望を誰も口には出さないけれどしっかりと胸に抱いていたはずだ。通告する医師も辛かっただろう。夜の病室がさらに闇に沈み、誰も何も言えなかったその時、沈黙を破ったのはベッドにいる当の娘だった。「ママ、大丈夫?」と、それは泣き虫のわたしを気遣う優しい落ち着いた声だった。本人が口を開いたことでようやく病室に穏やかな空気が流れ始めた。

 やがて、娘は車椅子で退院した。松葉杖になってすぐに彼の待つ新居へと向かった。夫の車で送り届けたあの日からもう10年以上の月日が流れた。

 「記憶に残っているあの日」はたくさんある。あり過ぎる。娘の闘病の日々。移植手術のため一緒に入院していた頃、病室から二人で見た神宮の花火。彼を紹介された日。彼から事故の電話を受けた日。損傷した事故車に荷物を取りに行き、荷台に上がって血のついていない所持品だけをより分けて拾った日。それでも、たった一日を挙げるなら娘が結婚式をあげたあの冬の日にしよう。可愛がってくれた祖父の命日。あの交通事故から三年が経ち、私たちは家族そろって箱根のホテルに集まった。純白のドレスに身を包んだ娘は美しく彼に優しく見守られていた。わたしは泣かなかったし、そしてその日は眩しいほどに輝く晴天だった。